オリエンタルシンキング⑤

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宗教は「非知」で語ることでしかない。

 安倍元首相を殺した犯人の供述から、また寝ていた子を起こしてしまったように、かの韓国の新興宗教団体の世界平和統一家庭連合(旧統一協会)の内部があぶり出されている。この団体、ひと昔前は、芸能人の信者の合同結婚式や霊感商法などで話題になり、私の学生時代はその下部組織原理研究会(原理)なるサークルが入りこんできて学生を勧誘するのを、自治会が必死に阻止していたのを記憶している。しかし、この20年ばかりなりを潜め、マスコミの話題にも上らず、たまに私なども渋谷の松濤の本部事務所を通りすぎても(仕事場が近かった)、意識することなく、その芸能人の顔を思いだすぐらいだった(小学校の時ファンで彼女の下敷きを持っていた)。
 今度、また新興宗教の所業が話題になると、こんな宗教心が希薄な私でも宗教なるものを考えざるをえなくなるのである。
 私は宗教とは全てを肯定して「委ねる」ことだと思っている。
 よく宗教と哲学の違いは、宗教の目的は救済にあり、哲学は真善美の真理を追究することで人を救済することを目的としているのではないと言われる。それでは救済とは何か、例えば仏教であれば、苦しみの因を知り、その因を取り除き、安寧、静寂の境地に向かう方法を教えるものである。故に現世が苦しくないという人に、仏教など何の関係もないのである。キリスト教の場合はどうか、これも全てイエスの導きのもと、一途に神を信じ愛することである。キリスト教で最も重要視されるのは死後の魂の救済である。キリスト教の場合、いつか訪れる最後の審判に常に備えていなければならない、ということが協調され、救世主であるイエスを信じるものは天国へ行くことが出来るが、信じない者は地獄へ落ちるという思想である。
 イスラム教、ユダヤ教の三つを「一神教」と言うが、一神教は神のお告げを授かった預言者(キリスト、ムハンマド、モーゼ)が民にそのお告げを布教するという構造になっている。
 信仰とは漢字を分解すれば、見上げて、敬って信じることなのである。そして、その信じ方が問題になるのだが、疑うことは許されないのである。信じて疑うなどは「矛盾」であるし、ありえないのである。仏教では本来もっている自分の本性・仏心を見きわめて悟ることを目的とし、すべての人が本来的に仏であることを体感としてつかみうるということであるが、それを疑ってしまえばそもそも本来的目的に到達できないのは道理である。キリスト教でいえば、キリストの愛に疑いを持ってしまえば、もう地獄ゆきなのである。それは、その宗教を信じ、肯定し、全ての自分を宗教に「委ねて」しまうことなのだろうと思う。それが出来るか出来ないかが信仰者と無信者の境界で、私が、なぜ、まだ信仰者になれないかと言えば、そこに疑いがあり、しっくり言葉の然りを感じないからなのである。例えば、知り合いに法華の宗教団体に入信しているものがいたが、彼は確実に言えるのだが、法華経の内容も、宗教団体の成立の歴史も私よりも知らなかった。それなのに彼はその宗教を信仰し、私は信仰していない。その違いは何なのだろうかと?結論から言って、私が少し分かりかけたのは、信仰する、しないは、決して「知」の問題ではないということである。それでは彼れをその宗教にかりたてたものは何なのか。彼の部屋にいくと、その団体の会長の写真が額に入って飾ってある。彼には悪いがその写真の顔は脂ぎっていて、目は邪悪な目をしているとしか思えないのだが、彼には神々しく見えるらしいのである。彼に言わせると、「お前の心が濁っているから、そんな風にみえるのだよ」と言うことだった。そうなのかと当たらずも遠からじで、何だか妙に納得してしまうバカな私がいたのであった。
 また、マスコミの宗教団体叩きがはじまっているが、確かに俗世に対しての犯罪行為は俗世の法律で裁けばよいのである(オウム真理教のように)。しかし、そんな宗教団体に入信して救済される人間もいるのも確かなのである。宗教とはそんな俗世の「理性」とは背理しがちなものであり(俗世からの超越を本来の目的としているのだから、折り合わないのも当然なのである)、俗世の理屈で攻めても宗教団体においては痛くも痒くもないというのが本当のところなのではないか。マインドコントロールを解くといっても、私たちも、科学とお金と命が大事というマインドコントロールに侵されているのだから、どっちもどっちと言われれば、立つ瀬がないのが本当のところかもしれない。
 そんなことを考えている私も、最近は宗教的な神秘体験というのに興味を持ち文献などを読んでいるのだが、その体験も非合理なものばかりでなく、いくつか腑に落ちるものもあるのである。また日本の自然宗教から派生した神道には何か共鳴するものを感じるようになっている。教祖もいない教義もない教団もない、ないないづくしのこの宗教、この言挙げしない「非知」の宗教に何か世界の宗教を知るための鍵があるのではと思うのである。朝、散歩の途中、神社の鳥居の前で一礼し、本殿へ。二礼二拍手一礼し、「本日もよろしくお願いします」と心の中で呟くと、何だか霊感を感じ引き締まる思いがするのである。それに対して疑いもなにもないのである。ただ神に「委ねている」私がいるのである。ひょっとすると私も宗教というものが、ほんの少し分かってきたような感じするのである。死が近い年齢になったためかもしれないが…。

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juro

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