オリエンタルシンキング③

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霊性とは<気配>のことでは

 霊性(spiritualityー精神世界)などと言うと、この科学合理的な世の中では、警戒しなければと思われるのが関の山であるが、確かに現在までにこれに騙された人はいかほどいるだろうかと想像すると、警戒防御もむべなるかである。
 ただ、私も霊の存在(形)などは、まともに信じてないが、世の中にはまだまだ計り知れない何かがあるということは認めざるをえないように思う。そもそも、私たちが、まあ信用している科学も現象の因果律を解明しているだけで、その本質なるものは何も分かってないのであるから科学なるものも疑ってかからなければならないのは道理なのである。そう考えると霊性と科学もどっちもどっちと思わざるをえなくなるのである。人間は生滅がなくならない限り宗教はなくならないと言われるが、恐ろしいことに現在の科学は人間の滅(死)を無くす研究さえ真面目に行われていると聞く。これこそ宗教より恐ろしい超宗教と言いたくなるが、ここまで行くと科学は迷信教だと(迷信を無くそうとして迷信をつくる)言ってもよいのではとさえ思ってくる。
 前置きが長くなったが、結論から言うと、私は<霊>なるものはあると思っている。しかし、それは、現象の形としては決して見えないもので、無いといえば無いのであるが、有るといえば有るのである(無即有、有即無)。回りくどい言い方で申し訳ないが、分かりやすく言えば<気配>のようなもの、と言ったらいいのかもしれない。
 例えて言えば、人は人生のなかで、<気配>が確実に有った(感じた)という経験を何度もしているのではないだろうか。虫の知らせ、出会った時にこの人とは長く付き合いそうだ、これ以上先に進むとヤバイ、馬券が当たる等の予感があった。ただ、これも後付けで有ったと、馬券などはほとんどハズレの予感であって、偶々当たったので、当たる予感があったと都合よく予感に結び付けているだけであり、馬券に限らずほとんどの<気配>が、このようなものだと解釈すれば、何でもないことになってしまう(どこかで小林秀雄もそのようなことを言っていたような)。こんなことを言ったら元も子もないが、もう少し突っ込んで考えてみると、逆に、私たちが<氣>を配ると同時に、予感なるものが生れると解釈したらどうだろうか、ハズレ馬券はハズレればその時点で<氣>をかけないのである。当たれば<氣>をかけて、それこそ大事にするのである。長く付き合っている人がいる、その人にどれだけ<氣>を配ったことか、それはそうなる予感がしたのである、と。長いこと会っていない人のことを<氣>にしていたら、死の報が来た。その予感なるものが<霊感>に近いものであるのなら、<霊感>は<氣>よって起こるといっても強ち間違いではないように思うのだがいかがだろうか。
 そう考えると、古代からの日本人の<言霊-ことだま>観、言葉には霊<魂>が宿るために<言挙げ>するなかれも、その言葉に<氣>を配ると<霊>が宿るために口に出すべからずと解釈することもできるのではないだろうか。私たちが万物に<氣>を配ると同時に霊<魂>なるものが立ち上がってくる。亡くなった母親のことを想う(<氣>を配る)と同時に霊性が甦る。祈りとは<氣>の配りと言っても穿ち過ぎではないと最近思うのである。それでは、その<氣>なるものは何なのか、興味が尽きないのである。

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juro

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