岸部四郎さん、安らかに…。

 

 虫の知らせというものはあるらしい。
 岸部四郎さんが828日亡くなった。事務所がそれを告知したのは、半月ほど後の915日である。岸部さんの近親者もしくは関係者以外は亡くなって半月後に知らされたわけである。当然私もそうである。
 しかし、その間、私は連れと何故か岸部さんについての話をよく交わしていたのである。偶々とは思えない、何かがそこにはあるのかなと、勘繰りたくなるのがまた<人>なのかもしれない。
 そんなことを話すのは、私は岸部さんとある時期確かに蜜月に近い付き合いをしていたからである。出会いは私が出版社を創業して3年目。設立と同時にいる社員が岸部四郎の本の企画を出し(私も岸部さんには、他の芸能人にはない特殊な感性の持ち主だなと思っていたので)、それを通したことがはじまりだった。
 その当時岸部さんは「ルックルックこんにちは」(日本TV)の司会で朝の顔になり、タイガース(グループサウンズ)時代から所属している渡辺プロを独立し、自らの事務所を設立したばかりの時で、今から考えるとタレントとして一番脂がのっていた時期だったような気がする。また収入面でも絶好調な時ではなかったか(奥さんの小緒里さんが冗談めかして、岸部の時給は50万なのよと笑っていたのを思い出す)。
 岸部さんに企画を持ち込むと、彼も乗り気になり、事はスームズに運び、何度かインタビューをして、『岸部のアルバム』(ドラマ「岸辺のアルバム」に掛ける)という本に結晶したのであった。この本は彼の<モノ蒐集>マニアとしての顔を彼の芸能人生と絡めて書かれた本で、内容のユニークさで、マスコミで中々の話題になったものである。
 それから、岸部さんとは事あるごとに会うようになり、南青山の事務所の他に自宅の紀尾井町のマンション(<蒐集物>で足の踏み場がなかった)にも伺うようになったのである。岸部さんは下戸で、酒を飲まずに食事とお茶だけで蒐集した<モノ>にまつわる話や芸能界の裏話(これで私も一端の芸能通になった)など交々(こもごも)長時間にわたり語られ、酒を飲まないと話せない私は、よく酒も飲まずこれだけ話せるものだと感心しながら、ずーと聞き役に回っていた(それが岸部さんに気に入られた一番の理由かもしれない)。
 その話の中で、よく「あまり僕、芸能人好きじゃないだよね」と呟いていたのを思い出すが、私もその「芸能人」(実は骨の髄まで芸能人だったのだが)らしくない岸部さんに、だんだん魅かれていったようである。
 そんな付き合いをしている時に、彼の借金による自己破産で「ルックー」の降板事件があり、質(たち)の悪い金融業者から逃れるために身を隠していたため、その後は会うことも儘ならなかった。それから数年、どうしているのか気になっていた時に、岸部さんから、今戸塚の一軒家を借りて住んでいること、磯子のプリンスホテル(今はない)のロビーラウンジで会わないかと連絡があった。約束場所に行くと奥さんの小緒里と二人、ラウンジのソファーに腰を下ろしていた。
 何年ぶりかの再会で、自己破産の心労もあるのではないかと心配していたが、岸部さんにそんな様子もなく、以前のように良く喋る岸部さんがそこにいた。その時は彼に現在の状況などもろともせずに、前向きに生きていくのだという<活気>が感じられ、私なりに安心したのである。その後は奥さんの小緒里さんから、よく私の携帯に電話がかかり、岸部さんの現況なり、芸能界の不満などを聞いたが、今思うと、その頃の小緒里さんの気持ちを察し、もっと親身になって話に耳を傾ければよかったと悔やむばかりである。実はこれは私の憶測だが、その数年前、私の会社はベストセラーをだし随分羽振りの良い時があり、彼女もそれを知っていたので、何とか岸部を助けてくれないかという電話でもあったのではないか。
 私などに電話を掛けてくるのだから、精神的に相当追い詰められていたのではないか、ただ、その頃の私も実は会社が危うく、資金繰りの毎日で、同じように精神的にキツイ時だったのである。彼女は間違えたところに救いの手を差し伸べてしまったのである。
 それを証拠に、私は岸部さんにもお金(30万円)を融通してくれないかと電話をかけるというテイタラクで彼女にとっては立ち上がれない気持ちだったのではないか。岸部さんは、「私は今こんな状態なので貸せないが、お金のない苦しみはわかる。3万だけで許してくれないかと」言ってくれた時は許すも許さないも、どんなに嬉しかったことか。
 そんな岸部さんにまた大きな不幸が襲う。今度は小緒里さんが自宅で倒れ逝ってしまうのである、何ということか。
 お悔みで戸塚の家に行くと、岸部さんは、疲れ切った表情をしながらも、私の顔を見ると少し苦笑い、小緒里さんの位牌の後ろの写真を見つめると「宮田さんが来てくれたよ」と言った瞬間、泣き崩れ、号泣してしまった。
 そこから、次々と自分自身の身体に変調(視野狭窄症、パーキンソン病)をきたし、改善することなく、お姉さんのご自宅の近くの病院で亡くなったようである。
 お悔みで行った後、私は岸部さん会うことはなかった。私も会社を畳み、時給1,000円のアルバイトに身をやつし、彼に会いにいくことよりも自分の目の前の暮らしを何とかしなければと精一杯だったからである。そして最近やっと生活が落ち着いてきたので、岸部さんに会いに行こうかなと連れと話していた矢先の訃報だった。
 彼の後半生の不幸を思うと、何だか、逆に前半生の成功が恨まれてならない。一度<幸福>の箍(タガ)が外れると、罪を負ってもいないのに、神は底なしの<不幸>をこれでもかともたらすのか、ヨブでもあるまいし、それでは残酷すぎないか。
 最後の岸部さんと私とのお別れの時に、側で付き添っていた彼のお姉さまが「みんな普通は時給1,000円で働いているのにね」と岸部さんに皮肉を言っていたのが、変に記憶に残っている。お兄さんの一徳さんが「芸能界に誘うのではなかった」と言っていたが、私は彼の人生は、烏滸がましいが「プラマイゼロ」で幸福だったのだよと言ってあげたい。
 今頃は小緒里さんと再会して、あの独特の話術で彼女を笑わせていることだろう―合掌。